松屋珈琲店の歴史History
松屋珈琲店 創業者のはなしFounder Story
781人の日本人移民が、コーヒーの栽培をするためにサントス港に到着したのが、明治41年6月18日。 そして大正3年、サンパウロ政府は8年間にわたり皇国殖民合名会社に無償でコーヒーを送り込んできました。
はじめ緑茶の国日本への輸入は拒まれましたが、大隈重信候の「移民の汗を無にできない」の一言で許可に至りました。
神戸港に到着したそのコーヒーを引き取りに行ったのが、松屋珈琲店創業者、畔柳松太郎です。
松屋珈琲店の歴史La Vie en Cafe History
先代 畔柳松太郎がコーヒーに手を染めてから今日迄で92年になる。大正2年(1914年)、松太郎は22歳の時に水野龍社長の皇国殖民合資会社に入社し、 コーヒーを担当し始め、大正10年に独立してコーヒーの豆屋になり、昭和52年1月11日に85歳で此の世を去る迄、コーヒーから離れたことがなかった。
この間に「長生きしたせいか」と自分で言っていたが、昭和50年11月3日に勲五等瑞宝章を頂いた。思いもしなかった御褒美にたいへん喜んでいた。
日本移民の父と呼ばれた水野氏は、明治41年(1908年)4月28日、第一回のブラジル移民781人を率いて神戸港を笠戸丸で出港、 6月18日にブラジル・サントス港に到着、以後10回に亘り3,747家族14,886人の移民を送り出し、サンパウロ州のコーヒー園の栽培に従事せしめた。
笠戸丸の100分の1の模型
サンパウロ州政府は、その功績に報いる為に3年間に7,215袋(70kg入り)のコーヒーを無償で提供して来たのである。
当時の消費量の実に7倍であったし、まだ一般化していなかったので、いくら無償とはいえ、船賃、輸入手続、倉庫料等がかかり、 これを売り捌くとなると大変な事業であった。
カフェ・パウリスタ神戸支店
日本コーヒー史 上巻より
全日本コーヒー商工組合連合会
水野氏は大正元年に横浜に株式会社カフェ・パウリスタを創立し、ブラジル・コーヒーの売り捌きに着手したのである。
因みにパウリスタとはブラジル第一の都市である「サンパウロの土地っ子」を「江戸っ子」と言うように「パウリスタ」と呼んでいるのである。
ポルトガル語ではコーヒーを「カフェ」と呼んでいる。
1917年(大正6年)大阪道頓堀風景
織田一磨 画 兵庫県立美術館蔵
洋館のパウリスタ
神戸に最初に送られてきたコーヒーは保税倉庫につんであったので、一定期間中に入手しないと没収されてしまうので、その処理に派遣されたのが「先代 畔柳松太郎」であった。
明治初年頃から僅かであるがコーヒーは輸入されていて飲まれていたが、庶民的に飲まれるような環境を作らなければ、大量の消化はとてもできなかった。
まず初めに、神戸の三ノ宮に、カフェ・パウリスタという喫茶店をつくり、コーヒー飲料の普及に乗り出したのである。その宣伝と飲用と販売等の責任者であった。
そして、その後、独立し現在の㈱松屋珈琲店へと至る....。
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